筑後川と床島堰
築堰の歴史
※以下「祭神加列増加願」(大正14(1925)年11月)より。カタカナをひらがなに、漢字を常用漢字に改める。
我三井郡の地は筑後川に跨り広邈たる十里の平野を有し殊に北岸一帯の地は地味本来肥沃なりしも河流甚だ卑きが故に前記床島堰渠の開鑿せられざる以前は水は咫尺に在りながら一滴だにも之を得ること能はず/折角の沃土を挙げて徒らに荒廃に帰せしめ其の間或は多少の田畝なきに非ざれども一に天水を待ちて灌漑に供せしが故に五穀登らず/不幸にして時雨候を愆れば居民饑餓して四方に流離するもの多し/各村其の疲弊に堪えず水道開鑿の意見夙に各庄屋の口に依りて唱導せられたるとも其の地北は筑前領長田村に接して国境を成し古来久留米、福岡両藩の間万事葛藤を生じて紛擾の絶ゆる時なかりしが故に一は其の紛擾の再起せむことを恐れ一は之を袋野、長野、地方に比すれば約五里の下流に位し川幅広く水勢急なるを顧慮して卒先事に当る者なかりしが鏡村の庄屋に髙山六右衛門と云ふ者あり意志鞏固にして兼ねて侠気あり宝永七年の旱魃にして居民の頻りに流離するを目撃し憂慮措く能はず此の機を利用して河北の水道を開鑿せむことを企画し時の郡中総裁本荘某に就き内願す/其の言ふ所一々理に適し義に合するを以て某も亦深く感激し家老に申告して公然出願すべく命を下せり/八重亀村庄屋秋山新左衛門、髙島村庄屋鹿毛甚右衛門、稲数村庄屋中垣清右衛門等皆慷慨にして義気に富むもの髙山六右衛門が家に赴き生死其の事を共にせむことを約し開鑿事業の一般に関する設計書の調製に従事す/先ず船を筑後川に浮べ六右衛門等は自ら潜水して床島付近に於ける水陸の勾配を測量せしに愈水足よく鏡村の高地上に猶一丈六尺五寸の勾配あることを確めたるより其の計画せる所は左の如し
一、筑後川恵利瀬の所にて堰き止め其一部に水余しを造り之を船通しとすること
二、堰の北岸より床島に向けて一大溝渠を造り河水を之に導くこと
三、床島に水門を設け其の水門より吸収する水は一条の溝渠を流れて一千二百余間を経過し江戸前に至らしめ之れより漸次派を分ち曲折廻流して三十余村の田畝を灌漑せしむること(床島に水門を造ることは後に設計変更す)
四、新溝開通の暁は古田八百余町歩を灌漑は勿論更に開鑿して七百余町歩の新田を得る見込あること
五、従来は上納米も不足勝なりしが開鑿の暁には米大豆は差引一箇年約七千俵の増米ある見込なること
六、経費約五十貫目を要すること
七、此経費五十貫目は藩府より借用し年賦にて返納すること
八、人夫は大凡八万余人を要すべければ総て之を郡役にすること
九、水道に要する伐木乃ち松五六寸角長二間一尺もの五千二百六十三本楠板長二間一尺幅厚二寸もの一千六十五枚六尺杭木二千九百七十本竹八百六十束其他各種の用材は付近の官山より無代払下を受くること
十、領内の大工のみにして不足するときは他領より雇入るること
十一、石材運搬船二十五隻を要すること
十二、山石六百坪割石九百八坪石俵五万八千二百俵は御井、山本両郡内便宜の山より無償採掘すること
十三、諸品買入の為銀十貫目を前借すること
斯くて二十一箇村庄屋連署し久留米藩府に出願せしが藩府許可し野村宗之丞、草野又六を遣りて之を監督せしめ将に一挙にして工事に着手せむとせしが偶々筑前領の抗議するに値ひ藩府為に躊躇し遂に之を中止し空しく一年の歳月を経たり/六右衛門等煩悶し屢々久留米に赴きて内願し時に或は高良山玉垂宮に祈願し十二月の寒天に神前に参籠し断食七日に及べることもありしとぞ/左れば藩府も遂に其熱誠に動かされ断然工事に着手すべく決議し正徳二年正月中垣清右衛門、秋山新左衛門等を筑前に遣はし予ての抗議は無法と信ずるも隣国の好み今回水道口をも二十丁余引下堤防をも築かず貴領に何等の故障なきやう工事を施す旨を通知し一面には役割を定めて草野又六を以て総取締役と為す/又六は本と大橋村鹿毛宗五郎の二男にして草野五左衛門の養子なり/名は實秋人と為り俊偉にして膽量群に超え水利墾田の術に長じたれば編戸の民より抜擢せられて下士と為る/能く身命を委して国の為に土を闢き利を興したること前後幾回なるを知らず/親に仕へて孝あり養家先きの草野村は大橋村の生家を去ること約一里なり/然るに又六は毎日往来して父母の安否を問ひ如何なる風雨寒暑にも之を怠らず/其の通路庄ノ前と云ふ所に一橋あり架設不完全なるが故に又六は之を過ぐる毎に水を渉りて未だ曽て橋を渡らず/人恠て之を詰れば答て曰く父母賜ふ所の身体髪膚を重んずるなりと/細心想ふべし然れども其の公益を計るに当りては大膽不敵にして何者をも畏れず其堰所を築くに際しては難工事を成功すべく余りに強行せしより人夫の怨を買ひ「木六竹八葦九月草野又六今が斬り時」と迄歌はれたりとぞ/亦其工事の如何に困難なりしかを推想するに足らんか/斯くて又六は正月二十一日より六右衛門以下前期の諸庄屋と協力して毎日三千五百人もの人夫を指揮し堰所溝筋とも同時に起工せしが堰の長百七十間筑後川に於ても此附近は名に負ふ奔流急湍なれば其の水を遮断すべく如何に大木巨石を投ずるも木の葉の如くに推し流さるるが故に流石の又六も術の施す所を知らず/一時は失望の余家に帰りて煩悶し殆んど病を発せり/其母仰いで水縄山を指し之を励まして曰く「汝彼の山を看よ土石は彼の如くも多し筑後川填まらざる筈なし汝更に一考せよ」と/又六聞て奮起し十余隻の古船に積載するに石と礫を以てし船ともに河底に沈めて聊か其基礎を作るを得たり/因て大に喜び更に附近の山より数十万の大石を運搬し来り小石は別に俵に詰めて五十万俵之を同時に沈めんと欲し一月晦日を期し三千五百人の人夫を堰所に集めて同時に作業せしむ/船より投ずるもの負ふて沈むるもの指揮宜しきを得て進退行歩少しも乱れず/賞は其の労に随ひ過つ者は罰あり前に記する如く又六は「今が斬り時」と迄歌はれ衆人の怨を一身に聚めたれども人気は百倍して其行動の雄壮活溌なるは観る者為に魄褫はれ巡視として来合せたる藩の家老某は「前代未聞の壮観なり」と激賞せりとぞ/斯くて石堰も成就すれば河水はせかれて洶沸し怒て西に注ぐもの勢漸く上るが如くにして床島の新溝に注入す/其の溝口に於て水門を開くは当初の設計なりしも筑前領抗議の為に二十余丁の溝末に引下げ江戸前と云ふ所に二箇の水門を設け其流を各村に分つべく大溝小渠の開鑿に着手せり/然るに床島の石堰は前に述ぶるが如く奔流激湍を遮断して急激に築成せるものなれば漏水多く従て新溝に注入する分量予期の如くならず/又六及六右衛門等之を憂ひ夜甚右衛門が家に会して之を評議せしも好策なし/皆一室に仰臥し雨を聴いて歎息せしが六右衛門枕を蹴て起ち又六に請ひて曰く「我れ聊か感ずる所あり杭木明俵の集まれるものと人夫百六名を借るを得ば明後朝迄に必ず新溝内に水を流すべし」と/翌夜暗に乗じて床島村に赴き先づ佐田川の川口より上流六十間ほど其の西岸を幅一間余り割り其の川口には斜に杭木を立て小石を俵に盛り四人持にて其の間に踏み込み新溝にも川口の対岸に当り多数の杭木を打込みたれば佐田川の水は之に湛えられて新溝内に流注するに至れり/惟ふに六右衛門は前記の佐田川が筑前領に属するより彼此の間又も紛議を起さむことを慮り斯くは迅速に秘密に此の工事を作業せしなり/亦以て其の智略の如何に非凡なりしかを観るに足らん/水門は長各十二間高底二箇より成る一は高さ五尺幅六尺一は高さ六尺幅六尺五寸結構頗る堅牢にして之を開けば其の水二條の幹線に依りて一は上郷に赴き一は下郷に走り各多数の支線に依りて各村を囲繞し閉づれば即ち悉く落ちて小石原川の流れに合す/運用極めて自在なり/斯くの如くにして床島堰渠は同年四月十三日を以て竣工せしが藩主は六右衛門等の功労を賞し草野又六を以て米石下賜の沙汰を伝へしも「堰渠の成就は偏に神仏の冥助と藩主の御威勢と時節到来竝貴殿の働に依る匹夫風情私に恩に浴すべきに非ず」と曰ひて遂に之を辞退せり
正徳二年四月床島堰渠の築造せられてより郡内諸村に於ける古田八百余町歩の灌漑は勿論新田の開墾せらるるもの四百余町歩に及べり/而も其の新田は其の歳より既に能く登りて一反歩の収穫六七俵に上れりと称せらる/然れども其の堰渠には猶不完全の所あるを免れず/殊に上部の恵利瀬に舟通しを設けたるが故に漏水頗る多く各村ともに用水の不足を感じて更に改築せんことを請求したれば久留米藩府も正徳四年を以て増築工事に着手すべく決定せり/役割は前回に同じく総監督は草野又六なり/又六は六右衛門等と謀り先づ恵利瀬の舟通しを壅塞して百余間の石堰を増築し筑後川の水を盡く新溝に流注せしめ舟通しは改めて新溝の起点より下流四百五十間の所に中曽吉原の地を開鑿して之を筑後川の本流に通すべく計画せり/中曽吉原は今や中洲と称して一片の島形を成し三井郡に属すれども当時は浮羽郡早田村の領分に帰し筑前領の長田村と相接し久しく荒蕪して其の境界も殆ど不明なりしが長田村の村民は此新工事の計画を伝聞し以為らく恵利瀬の舟通しにして一たび塞がれなば河水は自然に停滞して長田村一帯の地は甚だしく湿潤し為に耕作に適せず一朝洪水に逢へば田園沈没して多大なる惨害を蒙ることあるべしと/因て中洲を以て筑前領なりと揚言し作業船の通路に乱杭を打込み工事の妨害を為し終には突堤を築成し河勢を激して我早田村の沿岸に流瀉し来りしかば皆憤慨し長田村の庄屋に対して之れが解除を要求すれども事は水面の境界争にして容易に決せず/又六頗る躊躇の色あり/早田村の庄屋丸林善左衛門之を傍観するに忍びず自ら進て曰く「此の地は我祖先以来早田村分と定まれり筑前人が如何に抗議するも不肖自ら其の責に任ぜん宜しく速に工事を遂行すべし」と意気頗る振抜なり/又六其の言に励まされ毎日人夫二千人を招聚して着々工事を進行す/一日長田村より人夫に紛れて数十名の暴漢乱入し俄かに投石して工事を妨害せしかば我亦之に応じ将に一大惨事を惹起せんとせしが彼の群中より風采賤しからざる者十余名長田村の百姓と称して又六の前に来り「此処は筑前領なるに何が故に開堀するや」と詰問す/善左衛門傍に在り又六を遮て曰く我れ祖先以来久しく庄屋にして此の地を領す故に之を有司に証するのみ有司の知る所に非ずと/彼れ語屈し強要して長田村に赴く/彼の前きに長田村の百姓と云へる十余名は皆福岡藩士にして到れば則ち凌辱を加へて境界の事を詰問す/善左衛門毅然として前言を主張し毫も屈する色なし/彼れ又其の手を執り謝罪状を作らしめむとすれども筆を投じて応ぜず/番卒を附して昼夜拘禁すること三箇月に及び遂に得る所なくして放還せり/憐むべし善左衛門は其の呵責の為に身体の自由を失ひ遂に死没するに至りしも又六は善左衛門の嘱を守り其の虚に乗じて昼夜を分たず工事を急ぎたれば全部容易に竣工するを得たり/善左衛門が義侠は唯だ此の一事に止まらず其の支配地三町歩は石堰の下に埋れ畠地六町歩は中曽吉原に新川を掘るが為に荒廃し床島村東端の飛び地一町歩も兼ね失へりと云ふ/夫れ早田村は今の浮羽郡に属し其の対岸に如何なる水道開鑿せらるるも何等余沢を被る所なきに善左衛門は郡の自他を問はず三十余村の公益を謀らむが為には自ら一身一家一村を挙げて犠牲に供するを辞せず/義に厚しと謂ふべし/其子善六亦人の風あり後年筑前領よりの新川口に於て屢々乱杭を打込み我床島水道に妨害を加ふるに際し身自ら漁夫に擬し夜中竊かに水に入りて之を抜き取りしこと数回に及びしと云ふ/要するに善左衛門が一身を犠牲にして築堰の功を容易ならしめたる功績は決して没却すべからず