御由緒

御祭神

草野又六(くさのまたろく)

蜷川村(現・久留米市大橋町)・鹿毛家の出身で草野家の養子となる。床島堰築造工事の現場総監督。請願時、藩から準備を命ぜられ、着工時「普請総裁判」となり、一連の工事を通じて関わり続ける。工事難航時、母から叱咤を受け奮起、堰を完成させた。郡総裁本荘主計の邸宅での慰労を受けた一人。享保15(1730)年11月23日卒。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

高山六右衛門(たかやまろくえもん)

前願村二十一か村の一つ鏡村(現・久留米市北野町鏡)庄屋。「床島井堰出来発端書留」の著述者であり、床島堰築造の主唱者。伊勢参宮と吉夢、測量の後、藩に対して最初の築造請願を行った。築造許可が下りるよう高良山に参籠。着工時の所役は「御用手伝御用聞」。当初の通水不調時、井上組人夫を率いて夜間突貫工事により佐田堰の基礎を築く。また水門位置を江戸前から移動させないよう主張。本荘主計の慰労を受けた一人。藩主から恩賞の沙汰が下るも固辞。享保19(1734)年9月19日卒。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

中垣清右衛門(なかがきせいえもん)

前願村二十一か村の一つ稲数村(現・久留米市北野町稲数)庄屋。着工時の所役は「溝筋諸品裁判」。福岡藩側からの堰築造計画への抗議に対して、徳淵村大庄屋宅へ赴き交渉に当たる。本荘主計の慰労を受けた一人。宝暦3(1753)年11月28日卒。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

秋山新左衛門(あきやましんざえもん)

前願村二十一か村の一つ八重亀村(久留米市北野町八重亀)庄屋。鏡村とは隣村であり、六右衛門の測量に参加。清右衛門とともに福岡藩側との交渉に当たる。着工時の所役も清右衛門と同じ「溝筋諸品裁判」。本荘主計の慰労を受けた一人。延享3(1746)年5月14日卒。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

鹿毛甚右衛門(かげじんえもん)

前願村二十一か村の一つ高島村(現・久留米市北野町高島)庄屋。隣村・鏡村の六右衛門とは縁戚か。六右衛門が願書を調製、甚右衛門は金銀その他の支弁を担当。測量に参加。着工時の所役は「金銀支払預役」。享保16(1731)年11月14日卒。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

丸林善左衛門(まるばやしぜんざえもん)

床島の対岸・早田村(現・久留米市田主丸町早田)庄屋。船通しの付け替えにおいて工事箇所の中洲は早田村領(筑後領)と主張し、福岡藩側に3か月間拘束される。堰築造による自村への恩恵は皆無にもかかわらず、工事完成に協力した恩人とされる。大正5(1916)年11月15日贈従五位。

菅原神(すがわらのかみ)(天満神社)

菅原道真公。「寛文十年久留米藩社方開基」(1670年)によれば、下川村氏神天満宮として寿永年間勧請という。明治6(1873)年3月14日村社に定められる。

罔象女命(みずはのめのみこと)(水神社)

無格社水神社として江戸水道上に祀られていた。

御創建の歴史

床島堰の完成(正徳4(1714)年)以来、恩恵に浴している関係町村民は、功労者たちが当時祈願をこめていた水神社で毎年祭典を営み、謝恩と豊穣を祈願してきた。
大正2(1913)年が築堰200年にあたっていたので、同年床島堰のほとりで大祭を執り行い、続いて大正3(1914)年、関係町村民を網羅して床島堰顕彰会が組織された。功労者の事蹟を顕彰するとともに、床島神社を建設してこれに祭祀する計画であったが、巨額の経費を要するためなかなか実現の運びには至らなかった。
大正5(1916)年11月、陸軍特別大演習がこの地方で行われるに当たり、天皇陛下の御出ましがあり、その時五庄屋などの功労者に従五位が追贈された。これによって前記の事業が本格的にすすめられることになった。床島に神社を建てることは土地が狭小であるためこれを断念、大正12(1923)年、従前から下川にあった水神社と天満神社を合併して大堰神社とし、これに草野又六及び五庄屋を加列することで許可が下りた。関係町村及び用水組合の協力、篤志家の援助などにより経費の目途もついた。
大正13(1924)年4月23日起工式をあげ、大正14(1925)年11月29日鎮座大祭が執り行われた。また、大正13年6月、水神社の祠を恵利堰奥の院水神社として床島堰のほとりに勧請した。石唐戸(いしからと)水神社ともいう。
昭和10(1935)年10月31日郷社に昇格した。