床島堰碑の文章
原文
此堰者、正徳二年壬辰、梅巌時之所造也、初我御井郡諸村、土美而憂在少水、稲数村庄屋清右衛門、及八重亀村庄屋新左衛門、鏡村庄屋六右衛門、皆搪慨有智数嘗相筑後川之可堰以引水、規晝在意、然以洪流巨浸、事係非常、黙止有年、一日扼腕、相謂曰、咄、明々在上、百世之功、万世之利、時可失哉、〔※乃詣北野大庄屋秋山善左衛門〔高島村庄屋鹿毛甚右衛門北野大庄屋秋山善左衛門石梁先生碑文之不載也依旧記是二人有力于此擧不鮮矣故同建碑更加其名彫之云〕謀之〕議合、乃狀方畧白官長官長傳而上之公英明、勵精治道一覽壯之、即命野村宗之亟草野又六掌役、清右衛門等三人副之、他奉職者、家老総奉行以下大小有科、又六名実秋、亦久朶頤河堰、爲人俊偉、膽量超倫、又能商功用、其爲国辟土起利、前後許多、盖當此時諸承任者者、率皆倜儻、妙選得人、及命下衆気投合、奮起従事、乃大募役丁因前所上狀、鑿長渠于床島村、樹石立堰、以壅河流、於是河水洶沸、怒而西注者数百千間、
勢如漸上、而渠腹所受、属厭有餘矣、又就渠首、疏地鋪石、以導河餘流、路峻岸峭、奔潟数曲、望之如降龍、而行舟之駕、而落于本河者、斗折一瞬、飜飛可観、是称舟通葢爲堰大小凡四、而湫称之、爲渠一、而下流万派、崇庳曲直、権衡得宜、蓄洩之機、旱潦之度、天造而地設、其巧雄奇、而毫不愆于素功始于正月二十一日而畢于四月十三日爲日僅八旬餘、用夫凡二十餘万人、用銭五百餘万文、當其填築時、小石會而苞之、苞凡五十餘万、大石不知其幾万億、皆以二月晦、一時下手、有負而投之者、有並船而沈之者、斯日人徒雲集、而行歩進退、節制前定、賞随其労、過者有罪、於是乎人気十倍、一投一沈、奮厲之壯、殆欲與河水爭勇、觀者魂褫云、功成地之富于水者凡四十餘村、得良田一千五百餘町矣、抑正徳距今百餘年、星霜不浅、而渠下之民、到于今皷腹樂業、不労而飽、皆拜以爲神錫、後世可知也、嗚呼数子之有功于国于民可謂大矣。
文化十四年三月 樺島公禮誌
〔※ 〕部分は原文から追加
うら面
宝永七歳 具狀請于官村々
守部村 八重亀村 高島村 鏡村 大城村 乙吉村 乙丸村
赤司村 山須村 稲数村 仁王丸村 塚島村 中島村 千代島村
陣屋村 中村 今山村 十郎丸村 高良村 鳥巣村 石崎村
正徳二年官命司功事者
守部村庄屋 秋山善太郎
大城村庄屋 久富三左衛門
赤司村庄屋 田中吉右衛門
千代島村庄屋 後藤市右衛門
陣屋村庄屋 上瀧善兵衛
十郎丸村庄屋 田中庄左衛門
鳥巣村庄屋 田中三郎左衛門
高良村庄屋 黒岩利左衛門
石崎村庄屋 稲吉彦左衛門
高島村庄屋伜 鹿毛與三右衛門
塚島村庄屋代 内野惣助
大城村長百姓 日比生長右衛門
現代語訳
この堰は正徳2(1712)年、梅巌公(六代藩主有馬則維)の時につくられた。はじめ御井郡諸村は農地は肥えているけれども用水に乏しい悔みがあった。稲数村庄屋清右衛門、及八重亀村庄屋新左衛門、鏡村庄屋六右衛門などはいずれも意気と智略のある人物で、かねてから筑後川の水について検討し、これを堰によって灌漑用水とする計画を持っていた。しかし大河を相手にする大工事であるため、そのまま数年を経過した。しかしある日のこと、どうにもじっとしておれず「明君といわれる殿様が上におられる今こそ、永久に民の利益となるこの大事業の好機であり、これを失うべきではない」と、すぐに北野大庄屋秋山善左衛門のもとを訪れ、協議して〔(註)高島村庄屋鹿毛甚右衛門、北野大庄屋秋山善左衛門は石梁先生の撰文した碑文には載っておらず、もとのままこれを記しているが、この二人は事業において功績も少なくなかった。ゆえに碑を建てるにあたりさらにその名を追加して刻むものである〕意見が一致した。そこで具体的計画を立てて藩の重役に提出すると、これが藩主に差し出された。梅巌公は英明な方で藩政に力を尽くしていたが、一見してこの計画を壮挙とされ、野村宗之亟・草野又六にこの役を担当させ、清右衛門など三人をその補助にあてられた。このほか当時藩職にあって工事に関係のあった者として家老・総奉行以下いろいろな人物がいたが、又六は名を実秋と称し、かれも以前から筑後川に堰を築くことを考えていた。優れた人物で度胸があり、実務の才もあった。かれは当時藩のため農業を興して利益をもたらす仕事をいくつも手掛けていた。一体にこのときの工事に役割をあてがわれた人々はみなひとかどの傑出した者ばかりで、まことに人選の妙を得ていたといってよい。命令をうけると、皆の気持ちはぴったりと一致し、ふるって事にあたり、さかんに夫役の徴集にもあたった。さきに藩に提出していた計画書にもとづき床島村に長い水道を通し、筑後川に石を積み堰を築いて河流をふさぎ、これによって溢れた河水を数千間の長さ西の方に引くと、怒り沸き立つように豊かな水が水路を流れた。また水道の口近くに地を掘り削ってこれに石を敷きつめ、余った水流を河にみちびくようにした。その流れの様子は遠くから望めば、天から龍が降るように勢いがある。舟は本流に下っていき、翩翻と波濤の中を舞うように動くのが見られる。これを舟通しと称し、一体ここには大小4基(※3基の誤りか)の堰があるが、これを「湫」と称し、1本の水路となる。その下流は多くの支流に分岐し、高低曲折には調和があり、水を蓄えるにも減じるにも立派な工夫が施されており、まったく当初の計画には狂いがなかった。工事は1月 21 日に始まり4月 13 日に完了して、日数はわずか 80 日余り。人夫は延べ数 20 万人余、金銭は約 500 余万文を用い、要した大石は何万個か数えきれないほどだ。石を河中に投ずる作業は2月晦日に一斉に開始された。背負って投げ入れる者、舟から投げ入れる者など人夫は雲のように集ったが、規律正しく行動し、賞罰の厳重にしたため皆勇んで行動し、その有様は河水の力と人の勇気とが相争い、見る者の魂を奪うように勇ましい光景であった。事業の成功によって水利の恵みをうけた村は約 40 村で、約 1500 町歩の良田が得られた。正徳年間といえば今から約 100 年前、かなり昔のことだ。今、水道の恩恵下にある民は豊かに暮らし、生業を楽しんでいる。仕事も楽になって満ち足りており、これを神からの授かり物として感謝している。後世の人は、この数人の功績が、国と民にとって偉大なものであったことを知るべきである。
文化 14(1817)年3月 樺島公礼(石梁)記す